氷山のイッカク

主に大学について考える

弱肉強食な大学ランキングってどうよ?文学者による痛烈な批判を紹介します

 

 

はじめに―大学のランク付けってどうよ?―

 

大学ランキングを知っている人は多いでしょう。

アメリカ・イギリスのみならず、日本でも多くの出版社が様々な基準にもとづいた大学ランキングを発表しています。ランキングというと偏差値を用いた大学の序列をイメージされるかもしれませんが、学生数、研究費の獲得額、果てには高校教員の大学に対する好感度まで、数多くのものさしが存在しています。大学へ入学する学生数が増えたことで、学生の大学に対する要望の量と質が大きく変化したことが、こうした「ものさし」の多様化にもあらわれています。

 

たとえば東洋経済の大学ランキングの一部門、「面倒見がいい大学ランキング」。

https://toyokeizai.net/articles/-/264747

面倒をみてほしい学生や保護者が増えたことを表しています。

こちらは「就職力」のランキング。

https://toyokeizai.net/articles/-/269714

 

こうした大学ランキングや、資金収集・知名度向上のための実績稼ぎが往行していると

大学について良くないイメージを持つ人もいるかと思います。

それってどうよ?というわけです。

「ランキングで測れない大学の良さがある」「国の言いなりになっている」

「教育が大学の本分じゃないのか」「ほかにやることあるだろ」

世論の大半がこうしたマイナス印象を持っていると感じます。

 

20年以上前にこうした大学の序列化や数値化へ意見を投げかけた人が、

イギリスの文学者、ビル・レディングズです。

彼は若くして亡くなっていますが、その最期の書籍である「廃墟のなかの大学」で、

当時の大学の姿を痛烈に批判しました。

レディングズ自身の大学の教員としての経験と、文化研究・文学研究を通して大学の歴史を紐解いた知見によって批判されており、そこに強い納得感が存在します。

 

今回はこの書籍から、レディングズの大学観をご紹介します。

大学がランキングを上り詰めること、それにはどんな意味があるのか。

少し抽象的な議論ではありますが、大学について考える機会だと思ってご一読ください。

 

 

レディングズ「廃墟のなかの大学」より

 

 大学は「エクセレンス」に支配されている


(ぶっちゃけレディングズの主張はこの一言に尽きます。)


エクセレンスとは直訳で「卓越性」の意。
これは当初、教育原理の世界で使われていたことばですが、
今では欧米圏で大学の研究力や教育力の”スゴさ”を表すために使われています。
先ほどの大学ランキングで大学が上を目指そうとする傾向は、このエクセレンスが大学の理念・目的に取って代わるほど、重要視されていることを意味します。

レディングズは現在も多くあるこうした「ひたすら上を目指す」存在を「エクセレンスの大学」と称し、批判を展開しました。


一見するとひらすら上を目指す行為はむしろ望ましいことだと思えます。
人間・組織、誰でも何でも成長を好むものです。
しかしこのエクセレンスこそが問題であるとレディングズは言うのです。

 

ここが一番のミソです。エクセレンスは、なぜ問題なのでしょうか。


以下で詳しく見ていきましょう。

 

 

Point 1. かつて大学は「国民国家の大学」だった

 

最近は大学がテーマパークになった、企業になったとよく言われます。
長い夏休みやつまらない講義を持て余した大学生の姿を見た方がそう思うのも無理はありません。
(昔から散々言われていたので最近に始まったことではありませんが。)
参考:https://www.megurilab.com/?p=7166

 

レディングズはどう考えていたのでしょうか。

 

彼はつい最近まで存在していた近代以降の大学を「国民国家の大学」と呼びます。
国民国家の大学」の役割は、「国民文化の理念を生み出し、守り、繰り返し教える」ことでした。
国家に従属した大学は、その国家を繁栄させる国民を養成することが目的だったのです。
国家にとって文化は、国を統合するための理念であり象徴です。
これを可能にする大学像が、フンボルト型大学という有名なモデルに基づく、研究(文化の生産)と教育(文化の教化)の一体化・相互関連でした。

 

しかし近年、国民文化は需要を失いました。
多くの皆さんもご存知の通り、
経済のグローバル化(アメリカ化とでも言えます)に伴って国家は弱体化しました。
これをレディングズは、大学が国家によって与えられた「メタ・ナラティヴ(物語)の崩壊」と呼びました。
国民国家という物語の中に大学がいる必然性が無くなったのです。

そして今現在の「エクセレンスの大学」誕生へとつながります。

 

Point2. いまの大学は「ひたすら上を目指す企業」である

 

彼は現在の大学を「官僚的に組織された相対的に自立的な消費者中心的企業」と呼びました。
それはかつて存在した大学とは全く異なる価値観を持ちます。
そのため、彼は現在の大学を「ポスト歴史的大学」とも表現しています。
大学の何がどう変化すればこうした状況に陥るのでしょうか。

 

先ほど触れたように、大学の役割は「国民文化の開発」でした。
それが「市場向けの人的資源の開発」に取って代わられました。
研究―教育に対応する文化の生産と教化は、仕事と訓練になったのです。

 

そうして大学の理念・目的であった国民文化は、「エクセレンス」に変化します。
「廃墟のなかの大学」訳者はエクセレンスについてこのように説明しました。

閉じられた体系の中で多様な要素の統一原理として働き、具体的な意味内容を持たないという概念を表す用語

 

この「意味内容を持たない」とする点が、エクセレンスに対してレディングズが警鐘を鳴らすところでもあります。
大学で展開される教育・研究の意味内容よりも、「エクセレンスな教育・研究という事実が重要になった」のです。
そこにはイデオロギーがありません。あるのは会計による説明義務のみです。


大学ランキングで使われる指標に、研究や教育の質を問うもの、があったとしましょう。
そうした質に訴えた大学観は、「企業体へ変容するための手段である」とレディングズは主張します。なぜなら、「「質」は「キャンパスライフのすべての局面」に公平に適用され、単一の評価基準をそのすべての領域に結びつけることができる」から。

 

研究の質と教育の質を数値化すると、それらは意味内容を失います。
そこでは高みを目指すエクセレンス志向だけが求められているからです。
そのどちらが高くても、良いのです。高ければ。
「論争の余地のない立脚点、あるいは一般的な同意を最も得やすい修辞的な武器」
それがエクセレンスであり、ポスト歴史的大学が直面している現象です。

 

Point3. これからの大学には「社会」と「分析」が必要

 

では「エクセレンスの大学」時代で我々はどうあるべきでしょうか。

 

著書のタイトルの通り、レディングズは大学を「廃墟」と呼びました。
意外にもこれは大学をポジティブに捉えた言葉なのです。

 

国民文化という理念が無くなった大学を統一する理念はありません。
それは大学が希求する理想が無くなったことを意味します。
グローバリズムという未曾有の災害は現実世界を一気に包みました。
そして大学はその現実に適応すべく、消費者主義的な企業になり、
エクセレンスの大学になり、廃墟になったのです。

 

そこでは多様性の容認を可能にする統合的原理がはたらきます。
レディングズは、その原理のもとに存在する集まりを「不同意の共同体」と呼びました。
そこで「大学は社会的つながりを考察する試みの場となるべき」と主張しました。

 

「不同意の共同体」はあらゆる可能性が、人々の「信念」として浮上し得る環境です。
その「信念」を意味ある「価値」に変えるために、今ある大学への分析が不可欠だとしています。

 

さいごに―大学の理想と現実―

 

以上が「廃墟のなかの大学」でなされた主張です。
不慮の事故によって本人の死去が1994年10月。
それ以前に執筆されたものと推察されます。
恐ろしく現況の的を射た主張だと言えます。

 

大学ランキングで消耗する大学と消耗される学生。
そこにどんな思惑があるにせよ、
変化が激しい現実・時代の波と真摯に向き合う大学の姿が伺えます。

 

大学は中世の都市社会の中で形成され、近代のドイツで「国民国家の大学」が誕生しました。
そこでカントやフンボルトといったドイツ観念論者たちが、大学の近代性の規定に一役買ったことが知られています。


現実にある現代社会において、
今一度、その理念・理想を見直す必要があるかもしれませんね。

 

 

 

主要参考文献

ビル・レディングズ著,青木健・斎藤信平訳,『廃墟のなかの大学』,法政大学出版局,2000